どうということもない

どうということもないけど 忘れたくない

愛は相互交渉である

 

常日頃から考えていることの一つに、人間の愛について、がある。

 

愛していたらそれが愛だ、という人もいるかもしれないが、私の場合は少しちがう。というかその愛するという行為はなんなのかを紐解きたいのだ。

 

愛というのは、お互いに干渉し合い、内面に良い影響しかり悪い影響しかり与えあうことでやっと成立するものだと思う。内面へ干渉をせず外殻だけを見たり褒めたりして、そこに惚れ込んでしまうのは恋だ。外殻への恋はとても甘美で、いわゆる世間一般の恋愛作品はここから始まることが多いように思う。描きやすいし理解しやすく、見た目も絢爛になるからだ。結果として今日も毎日、ハリウッド・スターたちはシネマコンプレックスの中で恋愛沙汰を提供している。

しかし不思議なもので、人間恋ばかりしていると、本来の人間性を突き動かすギミックを持つはずの愛が疎かになる。取り繕ったものはいずれバラバラと剥がれ落ち、剥き出しのグロテスクな心が出てくる。どんなに美しくとも、そうたとえヴィヴィアン・リーのように華奢で可憐だとしても、内包する魂まで可憐とは限らないのだ。どこかしらでえげつない部分を誰だって抱えている。そういった内面を一度も目にすることのないまま、外側だけを見て評価をつけ、一緒にいることを決めたその矢先には、地獄が待っている。皮がめくれおちる。しかもまだ取り繕っていたいと思っているので、だんだんとめくれて落ちる。そうしていくうちに互いに違和感を感じていき、「〇〇 彼氏 違和感」のように検索履歴が増えていくのではなかろうか。知らんけど。

 

ちなみに、恋から始まることを揶揄しているのではない。というか大体の恋愛というのは、恋から始まると思う。この流れは至って自然だ。大切なのはこの地獄が、互いに結びつきを強固にするきっかけとできるかどうかだろう。ここで始まるのが衝突、詰まるところ相互交渉だ。〇〇と思ってたのに、本当は〇〇だったんだ!という衝撃は一度自分の中の相手観をリセットし、もう一度新しく設定を組み直すことだろう。良いところは勿論だが、悪いところもしっかりと情報に組み込まれる。意外とマザコン、掃除が苦手、八方美人…悪い情報が入ってきて、交渉をせず諦めてしまうことはあると思う。しかしそれは本当に愛とは言えないのではないか。愛はそこで互いを受け入れ、欠点をより良くするために交渉をしたり、また欠点を上回る美点を有するが故にもう少し一緒にいよう、となっていく。一緒にいるのが当たり前、とかいう熟年夫婦の凄まじい感覚は、そうやって互いにとっての相手が心の中で何度も何度もアップデートされていくことで初めて成立する、とても尊いことなのである。それが愛なんだわ。ちなみに、離れて初めて大切さに気づいた、だとか、ギャップ、だとか、何考えてるかわからなくて怖い、だとか色々な言い方やパターンがあるが、ちょっと暴力的だがそれも押し並べて相互交渉と言えるはずだ。

 

めちゃくちゃ彼氏彼女の体で話してしまったが、そうとも限らない。友人関係でも仕事関係でも同じだと思う。例えば最近仲良くしている後輩の子がいて、マックを昨日一緒に食べたんですが「あ、この子こんなにいいとこのお嬢さんという感じなのに、マック食べれるんだなあ」とか。「お、ダブルチーズバーガー!意外とガッツリ行きますなあ」とか。向こうもまた「3年目なのにマック行きたがるんだなあ」とか思っていたかもしれない。あ、いや、思ってないかもしれないけど一応…。友情もまたそうやって育まれていくように思う。

 

仕事においてもそうだ。この間呟いたような気がするが、同僚ですごく気が合う優しい人がいて、仲良くしている。一度その人のことをしっかり注意したことがあるのだが、それは本当に心が折れた。だけれども、注意せず終わってしまい、その人が余計に他の人に注意されてしまったら。もっと大きな事故を起こしてしまったらと、大きく何度も考え直し、やはりその人と話をすることにした。看過し許すことは自分の外側の印象を操作するためにいい手段かもしれないが、決して相手のためになることではない。相手のことを思い、きちんと交渉をしていき、会話から始まりぶつかりながらだんだん理解し内面化されていく。Twitterでも呟いていたように思うが、赦しは特に愛ではないと思う、というのはこういうことだ。

 

さて、ここまでしゃべってきた中で最も億劫なのは、恋愛とかいう単語が「恋」も「愛」も内包しちまっていることである。どっちも全く異なる概念で、起点も終点も違うのに、どうして人っていうのは、こうやってざっくりとした単語を作ってしまうのだろうか…。そんな人間たちと、そして共に歩んできた単語もまた愛しくて仕方ない。私は今、言葉というものと相互交渉をしているのだ。これは紛れもなく愛の一つといえよう。

休みの日に火災報知器の点検があって珍しく早起きしてしまい、なんか書くかと思って書いたけど、よくわからん文章になってしまった。

 

それではまた〜

林檎と包丁

 

林檎を食べる。

毎年この時期になると青森の親戚からたくさんの林檎が届く。親からもらった林檎の箱から一つ取り出しては、よく切れる包丁で居間にいながらそのまま皮を剥ぐ。剥けた林檎と皮は同じ茶碗に入れる。まな板を出すのが面倒だし、洗い物も減るからだ。

ステンレス鋼の包丁をひとつ持って、適当な服を着て一人居間にいる。さて私がこのまま居間から歩道へ飛び出したりすれば、勿論変質者であり、この小学校や幼稚園の密集する地区であればよもやよもやの大惨事なのだろう。安心して欲しい勿論そんなことするつもりはない。

ただ、残念なことに世の中には自分ひとりなどの力よりも、このステンレス一本で変えられることのほうが大きいんじゃないかとさえ思ってしまうことが時々あるのだ。無論それはマイナスの事象しか起こらない。起こらないほうが絶対にいいことだ。

なんだか堂々巡りなのだ。自分一人がこの林檎を食べて、何か世界は変わるのだろうか。食べた私が変えられれば、何かこの林檎にも存在意義があったろうか。そもそも、世界を変えたい、なんていう意識自体がもう、厄介極まりない思考なのだろうか。大きなことがしたい、名を残したいなんて妄言まだあとどれだけ言えるだろうか。2022年全体でそれに何ミリ近づいたか。毎日林檎に向き合わず、幸せそうに生きるあのひと等が恨めしい。きっとあのひと等もたくさん考え事をしているのだろうけれど、傍目には見えない分余計心に来るところがある。

そんな厄介な感情を込めて刃を入れられるだなんてことはつゆ知らず、赤くて大ぶりな林檎は美しくちゃぶ台に鎮座している。皮には幾つか傷がついている。雹に降られたらしい彼等は、見事に甘く熟れているのに、傷があるという理由だけで私なんかのところに連れてこられてしまった。糖度も高く紅にきれいに色がついている。きっと高くついたに違いない。そう考えると、なかなか可哀想な奴らである。

ここ数日まで、ずっと一日一個果物を食べ続けていた。秋から冬の常連はみかんだったが、林檎がなかなか減らないので完全にみかんと林檎が入れ変わっている。みかんは包丁なんて出さずとも剥き切れるが、林檎は皮を渋る場合は剥かなくてはいけない。元々自分は皮を剥かずに食べるのも平気なタイプだけれど、サクッと果肉に刃を突き立てた衝撃と、しゃりしゃりと剥く音が好きなので、ほぼ毎日林檎の皮をむいている。結構がっつり刃を入れても、完全に切れてしまうことはないので手を傷つけず安全とも言える。

青森の林檎はとても大きく、軽い新生児の頭くらいはありそうだ。詰まった果肉から滴る汁は、みかんよりも汁が粘っている感じがある。糖度の高さなのか、それとも繊維の密度なのだろうか。

片付けるのが面倒なので、切ったばかりの包丁はマグカップの上に横たえておく。また次使う時に洗えばいい、それに次使うのもどうせ林檎だ。

一人暮らしのちゃぶ台には、昼夜問わずずっと包丁が光っているのだ。それだけですこし、胸が軽くなる。ちゃぶ台に包丁を住まわせておけば、少しの苦労も何食わぬ顔で耐えられそうだ。自分の家のちゃぶ台に一本だけ、磨き抜かれた刃が佇んでいるなんて、やっぱり面白い。

うん。今後もそうしていきたいと思う。

遊び呆け

 

なんかずっと飲んでるし周りだけマジで時止まってる。俺たちだけがこの空間に取り残されてんだ。遊んだあと、また遊んでる。気失うまで遊び尽くして骨まで遊びしゃぶり尽くしてる。肉と時間は宗教だから気にしても無駄。

 

時止めた人たちと飲むのサイコーだよ。

忘年会シーズンという名の止まらない飲酒ルーティンで縮んだ脳味噌で乾杯してんだよ。
皆まわりなんて飲まずにゆるい幸せみたいな、白湯みたいなものを獲得していって、そのまんまどんどん老いに向かって順当に進んでいくんだよな?

 

親とのカンケーとか顔合わせとか結婚とか出産とか冠婚葬祭なんもかも、本当にみんな毎日ログインしてる。

デイリーミッションさえこなせねえわ。

でも毎日ログインが必要なら別のゲームで遊ぶよ。

 

俺たちはずっと若ぶりたいままでいてこのまんまガワは年取った心だけ大学生みたいなモノが爆誕するんだと思ったらめっちゃわらった。

たのしいな。


なにがわるいんだよね。
それは何も悪くないし。
ここも本当に楽しいよ。
反抗とかではなくて。

 

白湯よりでかいサワーのが好きなだけで。

コンビニの飯食って。夜明けまで飲んで話して。タクシー代ばかすか払って。足引きずって床で寝るのも最高に楽しいよ。


美味い飯もQOL?も全部いらないから遊ばしてや。
遊ぶのサイコー!馬鹿なんだよ 知ってただろお前も?

自炊ひとり飯

 

久々に体調を壊した。何か文でも書きます。最近は体を壊していないと文を書く気にならず…いえ元々大学の頃はずっと壊れてたのかもしれませんが…24歳独身女性、9.5畳の部屋からお送りします。というか、わー。このブログ。大学の頃の文がまだ世にあるのが恥ずかしいような、まあいいか。しばらくは消さないでおきます。

ひとりで暮らす、を、テーマに何か書きたいと思っていました。例えばほら、向田邦子さんの三十代で一人暮らしを始めてからのエッセイでは、人目を気にせず品が悪くなってしまったという一節がありました。でも、私の方はというとどちらかといえば逆で、ひとりで暮らし始めてから深酒を控える様になり、家で一人飲みなんてするかもなと思って酒を買い込んでも一向に減らず。部屋も散らかり放題かと思いきやある程度散らかすとなんとなく掃除したくなり。毎日湯船にしっかり浸かって土鍋でご飯も炊く。苦手だった洗濯も得意分野になった。誰かがやってくれるという期待感が全くないので、自分の世話を全て自分でする。そうするとなるべく自分を甘やかしたい体質なのか、自分の身体にできる限り全ての気を遣って、今日までやってきた。

一人暮らしを始めて約二ヶ月が過ぎた。数度具合が悪くなることもあったがここまでしっかり目に熱が出たりしたことはなかったし、我ながら自炊を頑張り洗濯を頑張り、睡眠にも気を遣ってきた。そうやってきたはいいが、一昨日完全に調子に乗って四次会まで粘って飲み続けたせいなのか、関節の痛みに発熱、しっかり体調不良。こうなるとなかなかだるく、服を着替えるのも買い物をするのも本当に辛い。水分の確保は避けられないので、二リットルペットを買い腕に下げると、その部分からドッと腕が抜け落ちそうな気分になる。

しかもとても食事に気をつかう家に育ったので、具合の悪い時は煮込み料理、サラダ、味噌汁、もう一つおかず、ご飯と揃っていないとなんとなく気が済まない。ということで18時から19時まで丁寧に料理を仕込んだ。卵を三つとネギを混ぜて、和風出汁をいれた卵焼き。中辛でもしっかり辛いジャワカレー。カレー種として冷凍している人参玉ねぎじゃがいも、豚肉を焼いた後に煮込む。具合が悪い時は必ず生姜だ。生姜、人参、玉ねぎ、じゃがいも、大根と豚肉を焼いて水を加えて煮込む。キャベツは千切りにして小さいボウルに盛り付ける。ご飯は冷凍したやつを温めて、乗るか乗らないかギリギリのちゃぶ台に載せてがっつく。全て残さずペロリと食べる。

風邪の回復には体力が必要。体力の回復にはご飯と水が必要。とにかくしっかり噛んでじっくり食べる。おいしい。豚汁はネギの青い部分の味が濃い。卵は焼き時間が長めだからか少しパンケーキっぽい。じゃがいもの溶けかかったカレーは玉葱の甘味と旨味が詰まっている。美味いもの以外全て悪、という些か過激派な家に育ったから、自分一人の口に入る食べ物もかなり気を遣う。まずドレッシングはキューピーでなくてはならない。特にごまドレ。こってりとした旨味と甘さ、少しの酸味がよく混ざってシャキシャキのキャベツに合う。嗚呼、酔っ払った日に買ったどっかのプライベートブランドのドレッシングを早く捨てたい。

しっかり食べた後は薬。私は麻黄湯ロキソニンを飲むことが多いが、まだ微熱なのでイブと麻黄湯にしておく。ちょっと前まで粉薬が本当に無理だったが、漢方薬が粉の方が遥かに効くことを身をもって実感したので、今では漢方粉薬信者だ。イブと麻黄湯を飲んで、なんとなく食べ足りない気がしたのでスイーツでみかんを食べる。みかん。こいつはすごい。手頃な大きさ、冬にかけての甘み、酸味。ぷちん、とはじける溌剌とした歯ごたえ。もうここまでいい食生活してよく寝てまだ治らなかったら諦めます。ダメ押しで換気して布団乾燥機と加湿器もかけて、それでダメならもうダメだよな。明日の朝は買ってきたフルーツヨーグルトと目玉焼き。明日のお昼はカレーうどん。夜は多分鳥とネギの照り焼き、納豆ご飯、豚汁残り、キャベツサラダ。明後日はどうしようか。

実はお気づきかもしれないが、毎日ご飯のことを考えるのが本当に楽しい。たまのご褒美に牛肉、塩鮭、明太子。白米オンリーで食べる時は自分に優しくしたい時。基本は麦ご飯か玄米。卵と冷凍肉、チーズ、乾麺、ベーコン、キャベツは絶対切らさない。毎日闘う、冷蔵庫とのチキンレース。外で済ませるより中で温かいご飯が食べたい。炊き立ての土鍋ご飯をかきこむ至福。これは一人じゃないとできない、史上最高の楽しみ。給料日は肉2キロ買って冷凍。わたしはもうオトナだ。

ひさびさな癖に、飯の話ですみませんでした。ではまたどこかでお会いしましょう。

旅行の話

タイ帰りに書いていたのでそのままのせます

 

この1ヶ月間おそらく、1.2.3.4.5.6.7回も飛行機に搭乗しました。恐るべき搭乗頻度。今後自分が経験することはまずないだろうな、というレベル。特によかったなぁ、というサービスはシンガポール航空でした。抜群。もう何から何まで完璧。笑顔も英語も美しく気品が漂い、キャビンアテンダントさんの服(パテック織のワンピース)かわいいし、機内食全部ボリューミーで美味しいし、しかも!ハーゲンダッツくれるし、ジュース美味しいし何もかもが最高。
でもやっぱり30分くらいディレイ(遅刻)。
そう。国際線はディレイディレイのオンパレード。
もちろん国内線スカイマークはそんなことはなかったんですが帰りのANAはよほどの台風で15分ちかくディレイしてました。
ちなみにANAは偶然スターウォーズジェットでした!アナウンスがC3POでかわいい

だって行きの羽田→シンガポール航空チャンギ空港も30分くらいディレイかましていたし、そこからチャンギ空港シンガポール航空スワンナプーム空港も30分はディレイしてた気がします。チャンギ時点では到着時刻は遅れてなかったんですが、到着1時間くらい遅かった気がする。
で、そっからまた国内線でドンムンアン→プーケット空港。これまたスワンナプームからドンムンアンまで遠いこと遠いこと!驚きの連続!
行きの便はエアアジアでこれまた30分ディレイ!もうここまでくると慣れてきて、搭乗時刻を書かれてもそんなに信用せず一度チラ見してまたその辺を歩き回るw

帰りはプーケット空港→ベトジェット→スワンナプーム国際でしたが、これもまた大幅ディレーイ!!!本当にすごくて40分ディレイぶちかましてました。しかもみんな、「まあそうだよね〜」みたいな雰囲気なのでこちら側もだんだん鍛えられて「おう、近くのベンチで待ってるぜ」の状態。水は買える場所を必ず確保しておかないと、LCCや国内線は飲み物の配給がないのでカラ死になります。

そしてもう一度乗り換えたスワンナプーム国際空港から羽田行きはJAL!
なんと…
ディレイなし!!!定刻通り出発!なんなら5分早い到着を確約!海外航空会社が金取りそうなとこも全部タダ!機内食和食!和食すぎて海外の人食べれなさそう!(とくにミズとごぼうとにんじんのごまきんぴらみたいなやつ!渋すぎ!めちゃうま!アレと一緒に酒飲みたい)
絶賛してるつもりですが、ここまで色々やっちゃって大丈夫なんという心配もあります。その点シンガポール航空とかは結構しっかりお金もギュッと取ってくるので、まあ、それはいいサービスもらえるよなというウィンウィン思想。

やーでもやっぱりベトジェットやエアアジアの搭乗員みんなニコニコおしゃべり、ほやほや〜んみたいなの見た後でJALのキビキビカチカチな動きを見るともう涙出る。(もちろんベトジェットエアアジアのこともすき。エアアジアの返金バウチャーの件だけ本気で納得いってないけど…)シンガポール航空はキビキビカチカチというよりは、スワッグな感じというかちょっと横に揺れて歩く魅惑的〜な感じです。でも仕事できる感。すげえ。

制服の可愛さでいうとシンガポール航空がナンバーワンですが、ベトジェットもガールスカウトみたいで可愛かったです。スカートが茶色のグレンチェックで、みんな脚が長くて背が高い!びっくりしました。あとちょっと親の贔屓目も入るかもですがANAもクールでいいですよね。ちょっと昔の制服っぽい。

JALで飲む綾鷹の切れ味の鋭いこと。
うーん、帰ってきた感、うますぎふ。

ひとつあるとすれば、シンガポール航空イングリッシュブレックファーストは濃すぎる!震えますw

 

話は変わりますがタイの人たち、みんな優しい。もちろん、日本の「なんだよ仕方ないな…」みたいな優しさも好きなんですけど(というか色んな場所の標準からするとだいぶ優しい方なんだけど)
タイの心からなんとかしてあげよう感というか、うんうん、いいよいいよ、なんとかするよ〜みたいなじんわりとしたぬくみみたいなのってどこから来るんだろうか。せっかく会ったんだしこれくらいやってあげるよ!みたいな。果てしない隣人愛精神。微笑みの国と言うのはまさにそうで会う人話しかけると大体笑ってくれる。微笑みというか、それよりもっと温かいパワーが彼らの心の中にあって、
苛烈な客引きはちょっとうぬぬ、となりましたが、それでもみんな本当にめげずあの手この手でいろんな言葉を覚えて話しかけてくるそのやったるで精神もすごい。えー!日本語発音うまいなと思う人もいれば「おかま」みたいな衝撃ワードを一つ覚えてずっと連呼する人もいました。おもしろい。

ゾウのところにいた女の子がすごく可愛かった。眩しい笑顔。はちゃめちゃにキラキラである。ちょっと涙出そうになるくらいいい笑顔。わー私って歳とっちゃったんかなあ。言葉がわからなくてもたくさんコミュニケーションとってくれて、ダンスしてくれて、決め顔でポッキー食べてくれるんですよ。もう、すごく沁みる。あーいいもん見た。きょうもがんばれるってなる。なんとなく接客系のお店には女の子の子供がいる可能性高い気がした。子守も兼ねてちょっと接客させてるのだろうか。
塩っけの強い水で、顔がだいぶヒリヒリしました。ビーチ行って遊んでしばらくホテル帰る予定ない〜とかだと気をつけた方がいいかも。すぐホテルでシャワー浴びたけどずっとあの状態だと身体には良くなさそう。

バンコクは大きなセントラルワールドというショッピングモールしか行ってないのでわかりませんが、そこに行くまでのタクシーの運ちゃんも本当にいい人だった。なんと現金オンリーと知らず現金両替所に連れてってもらいそこで支払いしましたw
プーケットの二日目の夜ご飯レストランの兄ちゃんもめちゃいい人というか、スマートで英語うまくて若くてかっこよかった。イケメーン!みたいな感じではないけど超素朴なわたなべがにてるひとなんだっけな、、 みたいな感じで若くてスマート。いくつですか?と聞かれて実年齢を答えたら19歳に見えるって言われたから贔屓してるわけじゃなくて本当にいい人でした。本当なんだって。19ってことで生きてこうかなもはや。
確かに現地の人からすると相当若くておぼこく見えるらしく、色んな助けをしてもらいました。

だからこそ、空港での塩っ塩対応が本当に骨身に染みすぎて辛いwバーガーキングで間違えてセット二つ出てきて900バーツくらいしたのは本当にびびった。フードファイトしそうだったんか、それももつれがいるとおもったんか。

いまとなっては笑い話ですが、疲労困憊の体には相当応えた。うーん。語学は大事だ。

ランドセルはピンク色


小学保健ニュースをギロリ、と睨みつける。

鐘がなるまであと少し。この時間が終わりさえすればいいのだ。

毎日、来る日も来る日も。何年も前にやったような気がする簡単なクイズの繰り返し。赤ペンの乾いてない所が手につくのが最悪。勉強とか呼ばれてるなぞなぞもくだらなく思えて、教科書の下でずっと絵を描いた。めくじら立てた先生からノートを没収されようと、メガネとバカにされようと、どうだってよかった。正直自分より難しい本読んでるヤツいないと思ってたし、正直自分より難しい問題解けるヤツもいないと思ってた。


ランドセルはピンク色だった。水色のランドセルにされそうになったから、咄嗟の我儘で、真逆のピンク色がいいと喚いたのだ。シナモンロールの柄が彫ってあって、お母さんがかなり渋った。

今思えば人生で初めての反抗。


小学校からの帰り道、誰かと一緒に帰るなんて生半可なことはしない。一人で島崎藤村を読みながら家に帰ると「ご飯を買って食べて」という書き置きと一緒に千円札が置かれていた。

これを握りしめてミニストップまで歩く。野菜が少しでも入ってるのがいい。かき揚げのそばのあっためて食べるやつを買う。そうしたら、残りの500円で駅前の本屋さんまで自転車を飛ばし。集めている漫画の単行本を一冊買うのだ。腕が伸びる主人公、エクソシストの主人公、謎の赤ん坊がやってきて特殊な弾を撃ち込まれる主人公、何頁ものパルプに詰まったインクの香りがより強く脳に働きかける。主人公を見つめるアタシは、主人公。


空想の世界だけが私のことを知っていたし、私も正直、空想のことばかり考えていた。仲の良かった女の子と決別するきっかけになった喧嘩をしたのが小学校四年生。四年生のアタシは、かなり、つっけんどんで、かなり、とんがっていて、


世界は全て、アタシのもんだった。


日々の空想をきっかけに毎日漫画の創作をした。夜中に寝たふりをして、そろそろと起きて2時にアニメを見ていた。その全てを赦されていたが、何か一つでも赦されないことがあると、パシン!とひとつの平手打ちで世界を変えられていた。


アタシも、パシン!で、世界を変えれんのかもな、とさえ、思い込んでしまうほどには。


そのうち、その価値観がとんでもない話に発展するんだけど、それはまた、べつのはなし。


ランドセルがピンク色で、エンジェルブルーの青いパーカーで、ジーパンと、VANSのピンクのスニーカー。分厚い眼鏡。

四年生のアタシは、何を見ていたんだろう。どうしてあんなにも、つっけんどんで、人を信用できなくて、抱きしめてあげたくなるくらい臆病だったんだろう。

ちょっと思い出すために、いま、こうやって懐かしさと歯痒さと一瞬に文に起こしてみている。


あと何回かくらいは、小学生の頃を思い出すどうしようもない回想に付き合ってもらいたい。よろしく。

愛されキャラに捧ぐ


どれだけの人を愛することができるか。

どれだけの人から愛されるのか。


生きている間に、何人の人と知り合えるのか。そんなのはわからない。けれども、この時期になると必然的にそんなことばかり考えてしまう。


私は元々、人付き合い、というのが得意ではない。おしゃべりも自分のことばかりになってしまうし、周りにはそんな私と付き合ってくれる心優しい人たちだけが残っている。またそんな中でも、とある勘違いやすれ違いの末に仲違いとなり、もう連絡が取れなくなってしまった子さえいる。瞳の血管が切れるほどに涙をたくさん流したとて、戻ることのなかった縁だ。かと思えば、十年と少し経つと向こうからぽん、と連絡がきたりもする。まあとにかく、人付き合いっていうのは昔から苦手だ。色んな人と知り合うのは好きだし、世の中にはこう言う人もいるんだと知るのも好きだ。

でも別に、それで長続きする縁なんてほとんどない。後輩も、元々仲良くしていた子でも疎遠になっていって、年に一回会えばいい方だという具合になってきたのだ。


そんな中、まあこいつは、仲良い方かなと言う後輩が一人いた。飲みたいなあと思うとそいつを呼んだし、律儀にも何人か知り合いを連れてきてくれて、大量に飲み明かして記憶もなくしてみたりとか。底なしにいいやつで、優しく、そして何より愛されキャラである。


愛されキャラ、という人は本当にすごい。私は絶対になれない部類だ。屁理屈だし、めんどくさがり屋だし、じめっとした視線で人を見てしまう節がある。そのくせプライドも高く人からバカにされるのが心持ならない時がある。初手から敷居を低くいられるのが苦手で仕方ない。


でも愛されキャラはひたすら初手から敷居が低い。なんだかわからないけど、ずっとニコニコしている。この場にいられるのがとっても嬉しい、みたいに。歯を出して笑いながら、酒を頼み、掃除も片付けもして、嫌な顔ひとつせず呼べばいつだって駆けつける。もちろんそんな良いところばかりでもなく、飲みすぎてとんでもない失敗をしたりとか、人間としての隙もばっちりある。馬鹿にする怒るけれど、それも本気のものでなく、どこかコミュニュケーションの一環という感じがするかわいい雰囲気のものだ。


人付き合いがほんとうにうまい。嫌いだと言う人のことを見たことがない。酒が好きな人間ならころっとやられてしまうんだろう。


そんなこんなで私よりも遥かに適応能力の高い後輩は、紹介した友達からさらに紹介され、その友達からさらに紹介され、そして延々と今も人脈を増やし続けている。わらしべ長者の物語みたいになっていた。元々私がいたコミュニティよりもずっと遠いところに行ってしまい、さらにその先もマスターしようと言わんばかりの。すんごいなあ。


羨ましいかと言われれば勿論羨ましいんだけれど、もうそれは愛されキャラのひとの既得権益みたいなところがある。すんごい。このパワーが人生という長大なモノポリーにおいていっちばんつよい気がします。


まあ、とやかく書いてきたけれど、君のそのとにかく愛されることに秀でた力は今後も大きな財産としていきるとおもうので、どうぞ一つこの縁を忘れずに、超有名人に知り合ったら一回でも紹介してみて欲しいもんである。


卒業おめでとう。また飲もうや。