どうということもない

どうということもないけど 忘れたくない

林檎と包丁

 

林檎を食べる。

毎年この時期になると青森の親戚からたくさんの林檎が届く。親からもらった林檎の箱から一つ取り出しては、よく切れる包丁で居間にいながらそのまま皮を剥ぐ。剥けた林檎と皮は同じ茶碗に入れる。まな板を出すのが面倒だし、洗い物も減るからだ。

ステンレス鋼の包丁をひとつ持って、適当な服を着て一人居間にいる。さて私がこのまま居間から歩道へ飛び出したりすれば、勿論変質者であり、この小学校や幼稚園の密集する地区であればよもやよもやの大惨事なのだろう。安心して欲しい勿論そんなことするつもりはない。

ただ、残念なことに世の中には自分ひとりなどの力よりも、このステンレス一本で変えられることのほうが大きいんじゃないかとさえ思ってしまうことが時々あるのだ。無論それはマイナスの事象しか起こらない。起こらないほうが絶対にいいことだ。

なんだか堂々巡りなのだ。自分一人がこの林檎を食べて、何か世界は変わるのだろうか。食べた私が変えられれば、何かこの林檎にも存在意義があったろうか。そもそも、世界を変えたい、なんていう意識自体がもう、厄介極まりない思考なのだろうか。大きなことがしたい、名を残したいなんて妄言まだあとどれだけ言えるだろうか。2022年全体でそれに何ミリ近づいたか。毎日林檎に向き合わず、幸せそうに生きるあのひと等が恨めしい。きっとあのひと等もたくさん考え事をしているのだろうけれど、傍目には見えない分余計心に来るところがある。

そんな厄介な感情を込めて刃を入れられるだなんてことはつゆ知らず、赤くて大ぶりな林檎は美しくちゃぶ台に鎮座している。皮には幾つか傷がついている。雹に降られたらしい彼等は、見事に甘く熟れているのに、傷があるという理由だけで私なんかのところに連れてこられてしまった。糖度も高く紅にきれいに色がついている。きっと高くついたに違いない。そう考えると、なかなか可哀想な奴らである。

ここ数日まで、ずっと一日一個果物を食べ続けていた。秋から冬の常連はみかんだったが、林檎がなかなか減らないので完全にみかんと林檎が入れ変わっている。みかんは包丁なんて出さずとも剥き切れるが、林檎は皮を渋る場合は剥かなくてはいけない。元々自分は皮を剥かずに食べるのも平気なタイプだけれど、サクッと果肉に刃を突き立てた衝撃と、しゃりしゃりと剥く音が好きなので、ほぼ毎日林檎の皮をむいている。結構がっつり刃を入れても、完全に切れてしまうことはないので手を傷つけず安全とも言える。

青森の林檎はとても大きく、軽い新生児の頭くらいはありそうだ。詰まった果肉から滴る汁は、みかんよりも汁が粘っている感じがある。糖度の高さなのか、それとも繊維の密度なのだろうか。

片付けるのが面倒なので、切ったばかりの包丁はマグカップの上に横たえておく。また次使う時に洗えばいい、それに次使うのもどうせ林檎だ。

一人暮らしのちゃぶ台には、昼夜問わずずっと包丁が光っているのだ。それだけですこし、胸が軽くなる。ちゃぶ台に包丁を住まわせておけば、少しの苦労も何食わぬ顔で耐えられそうだ。自分の家のちゃぶ台に一本だけ、磨き抜かれた刃が佇んでいるなんて、やっぱり面白い。

うん。今後もそうしていきたいと思う。