どうということもない

どうということもないけど 忘れたくない

藪の中

 

高校から大学にかけて、何か違うと思ったこと全てに怒っていた。毎時毎分毎秒大きく怒りを感じていた。赦す赦さないの域ではなく、本当に純粋にキレていた。世界そのものと自分そのものへの期待値が恐ろしいほど高かった。

もうしばらくキレていない。キレるくらいまでの烈しい燃えるような痛い怒りを感じなくなった。怒りが湧き上がってきてもそれを冷静に受け入れて実行に移すことが増えた。諦めるとはまた違う。自分が傷つくことを恐れて変わってしまったのではないか?とても腑抜けになったと、ずっとそう感じていた。少なくとも本当に最近まで、また怒りを感じたいとさえ思ってきた。怒りは随分と遠い感情になってしまった。

しかし、自分は本当に腑抜けたのだろうか。

燃える怒りを燃料に、新しい挑戦や実験に溢れて身体を壊しながら闘い続けた日々も本当に遠くなってしまって、なんだか齢二十五なのに隠居したおじいさんのような暮らしをしている気分になる。

平日は飲み会こそ多いが、反動で用のない土日を作ることも多い。ぼーっとして一日何もせず、ネットとか見て笑っている。なんだか暗い書き出しになってしまってとても可笑しいけれど、実際こうなんだから仕方ない。けれども私はこの状態も結構気に入っている。ある意味自分とまわりの努力のおかげでもあると、思えたから。

衝動的な喧嘩や他罰的な思想。突き動かしていたのは「怒り」そのものであったんだなと、ここ数年気づいていたが言葉にすることはなかった。なんだか認めたみたいで嫌だったからだ。

認めることにした理由は特にないけれど、高校の頃すごく好きだったライトノベルを久々に読みなおしてみた時に「読み始めの感情が違いすぎる」と気づいた。
あの頃の私が若い皮膚に纏っていた理不尽や世間への怒りが、兎にも角にも毎頁めくるごとに噴き出して、紙にも怒りの汗の跡や涙の跡が滲んでいた。逆にどんだけ辛かったんだよとも思う。他人が全て羨ましく思えて、産まれ落ちたことさえ憎み、恨んでいた。

理不尽に期待され、理不尽に育てられビシバシ躾をくらっていたので、全てに怒り狂っていた。その延長で今も若干の自罰的特性が残ってしまっているけれど、割合まともに大人になれたような気がする。それは全て、私が大人になってから出会った素晴らしい先輩や同期、後輩たちのおかげに他ならない。

優しく美しく綺麗な心を持った人たちが、ニンゲン……カエレ……だったどうしようもない自分を救い出してくれた。本当にありがたいことだと思う。だから、何年か前は毎週何か活動をして、死に物狂いでこの世に名前を残すと決めてあの手この手で目立とうとしていたけれど、今は違う。こうやって土日に手足を放りながら文字を書いたり、肉団子鍋作ったり、たまに人に会ったりして緩やかに過ごす。約束を破ることも、面倒事をけしかけることも、身体を晒すこともしなくなった。

もちろん何年か前の自分だって、悪くなかったとは思う。ただその頃本当に人として不出来で、人に沢山迷惑をかけ、本当に申し訳ないと思っている。

大学を出てから、自分を大切にすることを学んだ。それは自分を大切にすることだけではなく、他人を大切にすること、環境を守ることにもつながった。決して今が藪の中なのではなく、このゆるやかになった感情と環境は自分と周りの大好きな仲間たちと作り上げた、うつくしい成果なんだと、本当にそう思っている。

ただ創作を諦めたわけではないので、新しい挑戦はしていきたい。

全く話変わるけど原神のイベストめっちゃ良かった。出てくる詩がナイスなものばかりだったので、時間があれば論評したい。

 

ではでは

みんな欲しいの「余地」だけ説

 

中身なんて二の次で良くて、みんな想像する余地だけ欲しいんじゃないかな。

一体現在どのくらいの人が、一次創作を一次創作だけで愛しているんだろうか。

 

インターネットはすごく発達した。知らない人もいるかもしれないが、十五年くらい前のインターネットで二次創作をするのはすごく厳しいものだった。ネチケットの数々、検索避けタグ、サイト内での厳しいパスワード、パスワードを乗り越えたと思ったらそれが釣りサイトだった時の虚しさは計り知れない。それがリゼでもナノでもエムペ!でも、フォレストページでも魔法のiらんどでも、ニンジャツールでもpepsでもfc2でも、歴戦の同人戦士たちはサーチエンジンの荒波を潜り抜けていた。

あんまり若年寄的なことを言って通ぶりたいわけではない。むしろ本当にそういう言葉が発達を害すとわかっているし、ジオシティーズとかを知るもっと上の方もいると思ってたので、十数年のインターネットの変遷についてはめちゃくちゃ静かにしてきた……と思う。

 

07年にできたpixiv、08年に日本でサービスを開始したTwitterの存在は本当に大きかったと思う。とはいえこの二つって自分の記憶ではすぐにバーンと普及したわけではなくて、07〜10あたりはまだmixiやモバゲーの力もすごく強くて、作品や人の増え始めた10年ごろから移行期が始まっていったように思う。


pixivが始まって5〜6年は個人サイトがメインになっていて、それを倉庫的に移設することが目的だったりしたのだ。検索よけタグをつけて死ぬほど対策してきた作品を、下手したら何も知らない人が楽しめてしまうかもしれないということはある種恐怖だった。それは自分にとってもまた同じだった。とはいえ、他ジャンルに新参な人間が新しいジャンルへ手を出しやすくなるのは、同人界隈のパラダイムシフトだった。

 

Twitterでもpixivでも、鰻登りで作品投稿する人が本当に増えた。めちゃくちゃ有難いし楽しい。それはもう加速度的に増えているので毎日ぼーっとしていても二次創作を目にするし、人気コンテンツだったら一次供給よりも断然二次供給のが多い。驚くべき進行具合だわ。マジでこれいいところも悪いところもあると思っていて、公式設定みたいに二次創作設定のが蔓延してしまってあれそれ二次創作なんだみたいなことが余裕で生まれている。あと一次コンテンツに触れずに二次創作のみ摂取して二次創作を始める人が結構いる。それ自体は悪くないことだと思いつつも、なんかそれってブックオフが儲かる的なことと同じことになっているような気がする。

 

元ネタが盛り上がって元の売れ行きが上がって欲しいのに、コミケTwitterだけが盛り上がってしまうみたいな。事象が多発していて、これは結構マジで悲劇だと思っている。

 

二次創作が当たり前のようにどんどん、摂取されてそれが二次創作だと気づかない人さえいる今、もうみんなどちらかというと余地を求めてしまっているような気さえする。元ネタのものをそのまま食べるよりも、そこに空いたスペースでズンドコ新しい料理を作っている気がする。カップ焼きそばの焼きそばを食べるんじゃなくて、汁でスープ作ってるみたいな感じだろうか?

やっぱり、今の二次創作の余地を人々が欲する状態が続くと、かなり将来的に見れば一次作品の発生が鈍化してしまうような気がする。Vtuberとかは違うのかもしれない。というか、余地が求められる現代社会において、Vtuberが流行るのは絶対的な事象だったのかもしれない。

 

しのごの言いましたが、自分は二次創作大好きです。これからももっと盛り上がって欲しい。そして原作が何よりもっと盛り上がって欲しい。あわよくば……本誌を追ってる人が増えて欲しい……

この辺で終わります。

 

祖母がなくなり、青森にまた向かいましたが本当にやることがなく、原神ばかりやっていました。そうしたらもう今月データ5ギガしか残ってないです。

 

とんでもないゲームだぜ。

諸行無常

 

青森県に降り立つと、その瞬間むわりと強い自然の土気が胎内に流れ込んでくる。空気がうまいという次元を通り越して、空気が襲いかかってきて体内ごと塗り替えられる。赤く爛れた粘膜がすべてつるつるに修復されるような気分になる。そのまま健康診断に行ったらきっといい結果をもらえるに違いない。それくらいこの地の力はすごいのだ。

健康なんていうものも、いつしか変わる。不健康もまた然り。その時々の結果に過ぎないものに囚われ、人は変わることを恐れている。気づいていないうちに皆は変わっているのに。

今年は珍しく二回も青森県に降り立った。祖母が本当に調子が悪く今にも居なくなりそうだと報告を受け、東北自動車道をはるばる速度制限メーターと闘いながら574kmかっ飛ばしてきた。佐野で食事をした時以外、ほとんど止まることがなかった。七時ごろに出発して、到着時刻は午前三時。昔行った時は11時間近くかかったので、ギネスレコードタイムになる可能性があった。

五月には元気に歩いていたはずの祖母は、病床で苦しげに息を溢していた。手は握り込めないほど痩せ細っていた。

 

諸行無常

 

こんな言葉はなかなか日常で使わないものだと思うが、万物が流転し変化絶えないというのは、こういうことだったのかと感じた。

明るい肌は土気色に。窪みながらも爛々と輝いていた瞳は乾燥して焦点を結ばない。肺は喉から管まみれの機械へ繋がれ。酸素供給用の機械はチアノーゼを起こした身体をなんとか現世に繋ぎ止めるため、四六時中活動しつづけていた。ブゥーン、シュコー、ピピ、病室は機械音がくるくる飛び交って、消毒の香りより先に私はこの音たちに疲弊した。

これまでなんとなく感じていた『死』について、今まさにこの瞬間近づいている様子を目にすると、それは驚くほど鮮明だった。しかし噛み砕いてみれば、特に受け入れ難いものでもなかった。

私が小さい頃、祖母は名家の家事手伝いとして住み込みで働いていたのだ。都内にも関わらずガゼボまである大きな庭の、アール・デコ調に飾られた緑色のテーブルをよく覚えている。そこに好きな花を摘んでは私に渡して、嬉しげににこやかに笑っていた。
百合の花粉が強く、肌がかぶれた。
少し皺が多いが、明らかに美人であった。
家庭菜園が好きで水仙や百合など白い花を好み、料理が上手い。どちらかというと薔薇のようにはっきりした美しさを持つひとなので、清楚な花を好むところが可愛らしかった。かと思いきや鼻柱が強く血の気が多い。口喧嘩で勝つものはまずいない。きっと頭の良い人だったが、幼少期家庭が貧しく中学校まで出られなかったことをよく悔やんでいた。

派手好きでお洒落。鄙びた村の呉服屋は一番の得意先として彼女を選んだほどだ。百万くだらない反物を日常の衣類箪笥に忍ばせる豪胆さは、人目にはよく映らなかったかもしれないが……私はかなり好きだった。ディオール、グッチ。海外からの輸入衣料をすんなり着こなし。薄く露の血を引いた彼女は、グレース・ケリーのように彫りが深い顔立ち。当時にしては背が高い彼女は辺鄙な村で『鬼』と呼ばれていた。参観日には外人がいると大騒ぎになったという。
冗談のように小説めいた話ばかりで、祖母のエピソードは本当に面白い。

そんな彼女は村の豪商に嫁ぎ、大層厳しく私の母姉妹を躾けた。それこそ鬼神の如く。氷点下津軽平野へ小学生達を締め出し水を浴びせては眦をあげて叱ったと……若かりし頃の祖母を想像すれば、それさえもすこしグリム童話の様相を帯びるので、人というのは本当に不思議だ。

食事は質素なもので、茄子やササゲなど野菜をよく育てて、味醂や醤油と炒めて出してくれる。でっぷりと実ったそれは肉など入れなくとも存分にご馳走となったし、まず烏賊が好きな彼女は焼いた烏賊をいつもおやつにくれた。それは孫である私にも同じだった。烏賊を食べて水を飲みなさいといつも言われて、遊びに行くたびにそう言われるので少し辟易していたが、今となってはそれさえ煌びやかな思い出に変わる。

本当に面白い人だった。

きっと窮屈であったろう村を出た彼女は東京での一人暮らしをしていた。しかしそれも近年はやめて、青森へまた帰り大きな庭を思いのままにしていた。ブルーベリー、アスパラガス、桃、トマト、シクラメン水仙……沢山の植物に囲まれていた。

彼女は、険がとれて随分よく笑った。張り切って脚立に乗って落ちてしまったりと、少女の闊達さを取り戻したようだった。

美しく生まれた故、業を持った人だったんだろう。そのせいで、言葉にできない沢山の苦労をしたのだろう。決して彼女はそれを語ることはなかったが、年老いて微笑む祖母からは、張り詰めたものが取れたとき特有の美しさが感じられて、その姿もとても好きだった。またいつか何年も何十年もずっと先になれば、彼女が作る美味しいご飯を食べられるだろうか。

 

諸行無常

 

万物は流転する。世界から寵愛を受けたグレース・ケリーは、4ドアセダン ローバー3500を運転しながら崖から墜落しモナコの病院で息絶えた。その場所は、津軽平野の荒涼とした病院と、何も変わらないような気さえする。

 

きっと世界はこうして……哀しみに沈んでいる間も変わっていく。彼女の肉も魂も変わっていく。いつしか時が経てば私も死んでいって、彼女の小さな記憶を宿すものもいなくなるのだろう。

 

その時々の結果に過ぎないものに囚われ、人は変わることを恐れている。気づいていないうちに皆は変わっているのに。

波のように流転していく命。

私は抗わず受け入れられるひとになりたい。

 

ピーマン美味いだろ

 

ピーマン美味いだろ。

子供の頃は普通に苦いとか言う理由で嫌いだったけど、今となっては大好きな食べ物。バーベキューとかで肉ばっか食べて脂を存分に感じてる時にあの抜群の苦味、焼けたことで感じられるほのかな甘みとジュワッとした食感たまらないだろ。肉詰めだってピーマンが詰められる野菜で本当に当たりだし正解だろ。滲み出た油をピーマンの外殻が吸収してくれてありがとうだし、ビールにめちゃくちゃ合う。苦味レベルマックスのわたもめちゃくちゃ酒の肴に持ってこいだろ。ちょっと甘めのウイスキーで作ったハイボールとかでグイグイ流したいだろ。

 

わさびも美味いだろ。

ネタと酢飯の旨いんだけどちょっとぼやっとした味わいに、彼が加わることでキリッとした味わいになる。刺身の醤油にだってどんどん入れたいだろ。最初はそのまま食べててもやっぱり途中であの刺激を求めてしまうだろ。富士そばで冷やし頼んだら異様にでっぷりわさび載せられるけど今となっては有り難みしかないだろ。卓上に唐辛子しかない富士そばの貴重な味変要員だぞ。泣いて拝めよ。普通に単体でチーズとかに乗せて酒のつまみにしちゃっても旨いだろ。洋の甘酸っぱさに和の苦味と辛味が加わるの、ご褒美でしかないだろ。最近とある理由で人のwaruguchiを言ったり聞いたりする機会があったけど、ワサビ入れた濃いめのつゆ付けてそばと一緒に啜ったらいい感じに忘れられたぞ。わさびは心の健康にも有効だかんな。覚えとけ。

 

獅子唐もうまいだろ。

焼き鳥屋であれば絶対頼んじゃうし、天ぷらについてくるちっこいやつで一番先に選んじゃう。あんな旨い野菜神が作り出してくれて本当に感謝しきれない。マジでうまい。ビールで食べると涙が出る。たまに辛いのがあるとかちょっと気まぐれ感あるのもマジでいい。そのままでいてほしい。同窓会とか行っても毅然と変わらないままでいてほしい。

 

ゴーヤーもうまいだろ。

なんで皆んな嫌いなのかマジでわからない。一回チャンプルーのうまいやつ食えし。塩で下処理して丁寧に洗い流したらそんな苦くないし。てかその苦味がうまいんですけど。売ってたら即買いしちゃうね。150円くらいだったら泣いて買うし、300円くらいでも全然買う。マジでありがとう沖縄。こっちだけでは生まれなかったかもしれない旨みに出会えたことに感謝。キンキンに冷えたビールで夏にチャンプルードカ食いするの楽しすぎるだろ。お豆腐もスパムも入ってて栄養価も満点なんだぞ。

 

セロリもうまいだろ。

ネットの上だとめっちゃ苦手な人多くてびっくりした。え、まじで?新鮮で肉厚なセロリにクリームチーズディップつけて食ったことなし?あれはマジで薬物並に旨いぞ。(やったことなし)なんかカリカリ硬い皮してるのに歯を立てるとサクサク食べれるし、植物界では一線を画した肉厚さに心絆されること間違いなしだぞ。ズッキーニの肉厚加減もなかなかだけど、セロリなんてもうマジで維管束だから。鬼の維管束。こんなに旨い維管束ないから。アスパラとか好きなら同じ維管束だからすんなり受け入れられると思う。よりハード化しただけだから。その硬さと強さ、滲み出る苦味が魅力だけれども、普通に噛んでると甘くなるからね。

 

苦いからやだって言ってる人は噛みが足りないんだと思う全体的に。二十回くらい噛んだら、人はなんでも旨く食べられる。素材系は大体そうだと思う。味付け系は本当に不運なだけ。そろそろ食べログだけを信じてお店に行くのはやめよう。自分の舌は自分しか知り得ない。

好き嫌いをやめることで、新しい酒の肴に合う可能性が限りなく広がる。無限的拡張、それは人類だけの愚かで楽しい嗜み。人は必ずしも新しい酒の肴に出会う必要はないが、自分自身は大の酒好きも相まって、この好き嫌いをしない性質に非常に助けられている。明日はゴーヤーチャンプルーだから、ウキウキしてこれを書いてしまいました。ゴーヤ食わすよ?って言ってくる木手くんにはいつも「内地じゃ高めの野菜だからありがたいな……」って思ってます。本当もっと流通してくれーゴーヤー!

さらばTwitter、出よ荘園制度

 

酔ったついでに適当な名前を変えると、パスワードを要求され、それも酔ったついでに変えたものなので思い出せない。復旧用のアドレスもキャリアメールに大学のメールまで右往左往して全て試したが全くわからない。何もかも見当がつかないまま、哀れにも2023年8月自分のアカウントは終わりを告げた。2016年から数えて恐らく七年目になろうとしていた。思ったより長いな。

 

Twitter……今は「X」のカスタマーサポート様にも散々ラブレターを送らせていただいた。中には酔ったついでに送ってしまったものもあるので適当な文体もあった。しどろもどろ、のたまう馬の骨に対して彼等からは至極丁寧に「あなたがこのアカウントの主だと分からないのでこれ以上取り合えない。もう連絡しないでくれ」とメールをもらった。ふ、振られてしまった〜!

 

まあそりゃそうだと思う。これ自体なんだか少し童話みたいで面白い。しかし大人の工数を数日間見事ぶんどり、もがく会社員二十代後半女性の方が面白い感じがするのではなかろうか。数年分のクソ長い黒歴史が自分の手で閉じることもできずこの後ン年くらいはインターネットに放流されんのかと思うと少しどころかだいぶ憐れ。余程奇跡の起きない限り、もう更新することもないだろう。ていうか、できないんだよね。一応どこにも書く場所がないのでここに書いておく。きっと私の近況を知りたいと思ってくれている方なら、ここを見るだろうと想いを込めて、いったん書いてみてるぞ。

 

TwitterだかXだかYだか……?とかなり離れてみて、少し楽になったところと、少し苦しくなったところとが半分ずつ。

 

何かパッと言いたいなと言う時に言えなくなったのが苦しい。だけれどもそれは、酔った勢いで何か投稿したついで、何か言ってやったぜみたいな感覚を生み出していたにすぎないんだなとも思った。言葉を投げて何か反応が来るだけで、創作をしたような錯覚に陥り、果てはそれをオーガズムにしてる人さえいるような気がする。自分で認めるのは結構しんどい物だが、案外離れてみると沢山文字を書かないのに承認欲求が満たされて。あの時は快かったナ〜みたいな与太話さえできそう。

 

なんか上手いこと言おうみたいなことからは解放されたが、なんか上手いこと言いたい時にどうすればいいのかわからなくなったんだと思う。

 

よくよく考えてみれば生きててなんか上手いこと言いたいなんて普通そんな思うもんでもないのに、やっぱり自分は心の底ではなんか常に言ってたいんだろうな。自分の奥底にブツブツ呟く、不平不満ダラダラの子供が見える。

 

じゃあTwitter…あーXか
また作るんですかと言われても、なんかもういいかなと言う気がしている。ここ最近のあのSNSを取り巻くなんかよくわからない第三者の腕に踊らされてて、でも結局どこ行きゃいいのかわからんタスケテーみたいな感じがめちゃくちゃ嫌になってしまったからだ。閉鎖的なコミュニティがいくつかあるので、それはまだ残ろうと思うけれど、暫くは、と言うかもうほぼ……あすこでオープンなアカウントを作る気がない。イーロンマスクが嫌いとか言うよりも、自分みたいなほぼマイナスの動力で生きてる人間はイーロンマスクが排除したい側なのかもなと、口惜しいけど認めそうになっている。

 

超爆発的大金持ちが、一旦手に入った領地でやれる手を尽くすのはわかるし大いに賛成。私でもそうすると思う。でもやっぱ自分の領地だと思ってた場所が荘園でまあできれば年貢納めてね、たまには見返りあるかもよとか急に荘園制度始められてもガチできつい。こりゃー地頭のこと嫌いになっちゃう気持ちもわかりますわ。鼻も削がれちまうし髪も引きずられちまってんのよ。も、もう二毛作したくないよ〜、イロえもーん。

 

ここまで書いて結構言いたいことあったんだなとやっと気づいた。不満ダラダラだな。あとなんか一回他アプリ行ったはいいけど結局流行んなくてTwitterに帰ってくる人のこととかも何人も見たので、この八方塞がり感が見ていて苦しかった。こんなに苦しい御触れが出ているのにここに住まなければいけないのか……みたいな。やっぱ荘園だよ荘園。関係ないけど2016年の慶應文学部の日本史は確か荘園の史料だったよね。

 

ビジネスとしては至極真っ当なんだろうなーと思えど、もう戻らないユートピアのことを考えて涙を流す。ファボだった頃に戻せ……。もっと言うならアカウント非公開にしたいからせめて電話番号だけでもう一回ログインできるようにしてくれ。(ド本音)

 

俯瞰して見ると鎌倉幕府って正しかったんすねと思う。もっと遡ると口分田になるのか。いつだっけ、長屋王……?とにかく政治を取り仕切る人はいつだって正しいのだ。そのうちイロえもんも民主党共和党にいるかもしれないね。

 

ここはたまに更新します。って言ってから半年以上音沙汰ないかもですが自分は咳しながら働いてるんで大丈夫です。身体は知らないですが心は元気なので悪しからず。

 

ではまたどこかで会いましょうー

しっかりめにメゲる

しっかりめにメゲている。
思考よりも先に身体側が根をあげている。
そのめげ方は凄まじく(全く綺麗な話ではなくて恐縮だけど)一生水下痢、体温は2019年ぶりにほぼ毎日37.0℃を超えている。これは大記録だ。

夏の体調管理に一つも自信はないが、まさか今年はここまで酷いと思わなかった。なにせ先々週からずっとこの調子(ひどい時は38℃超え)で、毎日ロキソニンを飲んでも気持ち悪くて敵わない。

ろくに飯が喉を通らない。すごい。割高の経口補水液がバンバンなくなるせいで家計が怪しい。何となく水下痢に関しては鳥の唐辛子焼きのせいな気もしているが、どうせ免疫力が低下して食あたりしやすくなったんだろう。


もう誰でもいいので本当に助けてくれ。誰もいない9.5畳でカンダタをやっている。蜘蛛の糸でも垂らしてくれ。頼むよ。

ふらついて扉に頭をぶつける。些細なことでも涙腺がゆるむ。こんなにドンドコ身体に鞭を打ってにこやかに過ごす事が難しいとは。体調は終局を迎えている。なんとなく、自分の会社員生命の燈が、向こう側からゆらゆらと迫りくる窒素に止められようとしているような気がする。

こんなに弱気な発言をするのは久しぶりだ。今日は本当に弱っている。

だって少しでも思考を手放して携帯から離れると腸管が痛くて敵わない。便器の誘致力。マジで引力。死にたくないなー。

 

流石に明日は病院に行こう。

毒酒

 

酒は美味しくて日常の嫌なことを少しだけ遠ざけてくれる。数ある大好きなものの中でも、めっぽう好きな方に入るだろう。トリス、角、ジムビームは必ず家に揃えてあり、毎日違う割材で嗜んでいる。勿論飲み過ぎないよう気をつけて。けれどその一方で毒だなあ、とも思う。たとえ善良な人であっても、酒に毒されるとまるで変わったように凶暴になる。そしてそう言う光景を見るとすごく悲しくなる。

この間本当に毒の酒を飲んだ。ものすごく悲しかった。友達の女の子ひとり、飲み屋に置き去りにされて。男数人がさらさら流れるようにいなくなるもんだから、大変ぴえんであった。まあ友達も別に酒癖がいい方ではないし、その日かなり酔っていたからだるいのもまあ、わかる。けれども女の子置いてあんたらは……と……

のちのち一人、友達の男が一緒に助けてくれたから、感謝している。ありがとう。また会ったら直接礼を言いたい。

それ以外にも、ううん、となることがいくつかあった。まあでも、それはもういい。思い出すだけでなんだか不味いもの食ったみたいな気分になるから。ちなみにしめに一人ですしざんまいに行って、それはすごくよかった。

なんでみんな酒なんて飲むんだろうか。私も辞められるなら辞めたいなあと思う。普通に美味しいから飲んでる派だけれども、美味しいで済むならもっと身体を労われるものに頼りたいし。酒で日常の嫌なこと忘れてもまた嫌だなあと思うことがやってくる。別に酒自体に悩みをどうこうする力なんてかけらも無いんだよな。ちょっと大胆なことを言えたりするかもしれないが、そんなもんに頼っても元の力なんてひとかけらも上がらない。まじで酒なんてもん、本当に欠かせないんだろうか。
飲み会の空気やノリ、大勢ではしゃぐことが好きだ。でもそんな場でも、酒は欠かせないんだろうか。わからない。個人的には、美味いし楽しいしサイコー、くらいには思う。ショット一気を4回くらいでちょっと様子が変わってくる。楽しい飲み会に戦争の要素が加わる。戦争は別に楽しいことではないのに、グッと酒が頭に回って高圧的になる。勝たなければいけない気がしてくる。 

もうそんな勝ち負けなんて、二十も半ばを過ぎると誰だって気にせんのに。何を競い合って生きてんのか、少し疲れてきた。もうお酒なんていらない……とかっこつけてみよっかな。個人的にはしばらく大勢でドカンと飲むことはしばらくやらないかな、と思う。ドカンと、というのが大事だ。静かに飲むのはやっていきたい。嘘こけェよく言うわ〜と思ったそこのあなた、次回またわたしと飲むときにきちんとこの我が勇姿を見とどけるように……。

とかいう、ヨッパライの戯言