どうということもない

どうということもないけど 忘れたくない

藪の中

 

高校から大学にかけて、何か違うと思ったこと全てに怒っていた。毎時毎分毎秒大きく怒りを感じていた。赦す赦さないの域ではなく、本当に純粋にキレていた。世界そのものと自分そのものへの期待値が恐ろしいほど高かった。

もうしばらくキレていない。キレるくらいまでの烈しい燃えるような痛い怒りを感じなくなった。怒りが湧き上がってきてもそれを冷静に受け入れて実行に移すことが増えた。諦めるとはまた違う。自分が傷つくことを恐れて変わってしまったのではないか?とても腑抜けになったと、ずっとそう感じていた。少なくとも本当に最近まで、また怒りを感じたいとさえ思ってきた。怒りは随分と遠い感情になってしまった。

しかし、自分は本当に腑抜けたのだろうか。

燃える怒りを燃料に、新しい挑戦や実験に溢れて身体を壊しながら闘い続けた日々も本当に遠くなってしまって、なんだか齢二十五なのに隠居したおじいさんのような暮らしをしている気分になる。

平日は飲み会こそ多いが、反動で用のない土日を作ることも多い。ぼーっとして一日何もせず、ネットとか見て笑っている。なんだか暗い書き出しになってしまってとても可笑しいけれど、実際こうなんだから仕方ない。けれども私はこの状態も結構気に入っている。ある意味自分とまわりの努力のおかげでもあると、思えたから。

衝動的な喧嘩や他罰的な思想。突き動かしていたのは「怒り」そのものであったんだなと、ここ数年気づいていたが言葉にすることはなかった。なんだか認めたみたいで嫌だったからだ。

認めることにした理由は特にないけれど、高校の頃すごく好きだったライトノベルを久々に読みなおしてみた時に「読み始めの感情が違いすぎる」と気づいた。
あの頃の私が若い皮膚に纏っていた理不尽や世間への怒りが、兎にも角にも毎頁めくるごとに噴き出して、紙にも怒りの汗の跡や涙の跡が滲んでいた。逆にどんだけ辛かったんだよとも思う。他人が全て羨ましく思えて、産まれ落ちたことさえ憎み、恨んでいた。

理不尽に期待され、理不尽に育てられビシバシ躾をくらっていたので、全てに怒り狂っていた。その延長で今も若干の自罰的特性が残ってしまっているけれど、割合まともに大人になれたような気がする。それは全て、私が大人になってから出会った素晴らしい先輩や同期、後輩たちのおかげに他ならない。

優しく美しく綺麗な心を持った人たちが、ニンゲン……カエレ……だったどうしようもない自分を救い出してくれた。本当にありがたいことだと思う。だから、何年か前は毎週何か活動をして、死に物狂いでこの世に名前を残すと決めてあの手この手で目立とうとしていたけれど、今は違う。こうやって土日に手足を放りながら文字を書いたり、肉団子鍋作ったり、たまに人に会ったりして緩やかに過ごす。約束を破ることも、面倒事をけしかけることも、身体を晒すこともしなくなった。

もちろん何年か前の自分だって、悪くなかったとは思う。ただその頃本当に人として不出来で、人に沢山迷惑をかけ、本当に申し訳ないと思っている。

大学を出てから、自分を大切にすることを学んだ。それは自分を大切にすることだけではなく、他人を大切にすること、環境を守ることにもつながった。決して今が藪の中なのではなく、このゆるやかになった感情と環境は自分と周りの大好きな仲間たちと作り上げた、うつくしい成果なんだと、本当にそう思っている。

ただ創作を諦めたわけではないので、新しい挑戦はしていきたい。

全く話変わるけど原神のイベストめっちゃ良かった。出てくる詩がナイスなものばかりだったので、時間があれば論評したい。

 

ではでは