ゴールデンウィークという名前のついた休みがある。
大映が宣伝目的で1952頃につけた名前らしい。とても和製英語らしくいい名前だと思う……
私は去年のように有給を使った連休にはせず、暦通り5/3〜5/6の休みだった。その間は、親の実家である青森県で静かに過ごした。
1日目はすき焼きを祖父や叔母とつつき、2日目には三内丸山遺跡から浅虫温泉まで、父の運転でドライブをした。
3日目には、従姉妹夫妻と庭でバーベキューをして楽しんだ。夜はずっとベルサイユのばらを読んでいた。
充実した、美しくとても素晴らしい時間だった。
優しい時が流れ、満たされていることを実感するたびに、烈しく必死にぶつかっていた大学生の頃を思い出す。私は一体なにと戦っていたんだろうかと、今回はついに、何度も考えさせられた。
人間とかいう生き物は、長くても90年くらいしか生きられない。それは甲虫や微生物なんかからすると果てしない時間かもしれない。しかし200歳まで生きると言われるホッキョククジラやゾウガメ、更にはベニクラゲや海綿類なんかは実質ほぼ不死らしいので、そこと比べてしまえばどうということはない。長きにわたる地球の歴史なんかからすれば、人間はすぐに死んでしまうのだ。
そんな短い間を人間は、人から影響されたり、人に影響を与えたりしながら、なんとか命を繋いで生き延びていく。家族、友人、社会、さまざまな要素に繋がれて、人間は生きる。きっと、一人で自給自足で暮らしていくことはかなり難しいはずだ。
それなのに、私はできることなら一人だけで生きていきたいと何度も考えていた。特に大学生の頃までは。
影響を誰かから与えられることはあっても、影響を誰かに与えることは難しいと、そう思っていた。だから、大学4年の時には自分がどこまで誰かに影響を与えることができるのかという実験も兼ねて、ミスIDに応募して約半年頑張ってみたりした。承認欲求の表れでもあった。そしてその結果は(当時できたばかりの彼氏にウツツ抜かしまくったこともあり)散々で、私は自分の実力をはっきりと知ることができた。承認欲求だけでは、うまくいかないんだよな、と。思い込んでいた。
そしてそれがだんだん、なんか違うということに、苦節5年、会社員6年目にしてやっと気づくことができた。
そもそも、人は生きて存在するだけで、人に影響は与えている。そしてその度合いがどこまで広がるかということが、承認欲求と密接に絡んでくる。
なんかあんまり上手く表現できないけど、まあこのまま喋ろう。
SNSやなんやらの刹那的な承認は、短い時間で一斉にぶわあっと広がって、数という形でフィードバックをくれる。しかしあくまでそれは刹那的なものであって、墓場までは持って帰れない。何万人のフォロワーが90年(と、仮定する)の人生を満たしてくれるもんではない。この反例で家族の話をすると思った人がいるかもしれないが、ちなみにそんなことはない。別に家族ができたって、子供ができたって、その人たちがポキっと墓参りに来なくなる可能性さえある。90年のうち近いところに60年一緒にいた人がいても、脳の状態によってはそのことを忘れてしまうことがあるかもしれない。だけど、60年過ごしたその時間を、肉体と空間は決して忘れないだろうと私は思う。対話をした肉があり、共有した空間がある、これが何より重要なのだ。
人間は多くのことを忘れる。たくさんのことを経験して、美しいものを見て、素晴らしい出会いがあって、そして忘れる。跡形もなくすっきりと忘れる。忘れないでったって無理な話なのだ。そういうふうにできている。愛している人のこともいつかは忘れてしまう。人間を設計してくれた関係者はきっとそこまで真面目ではなかったのだ。
私が言いたいのは、刹那的な関係を不特定多数と持って満足感を得るより、断続的ではあれど継続した繋がりを一人と結び、そしてその人としっかりとコミュニケーションをとることが、何より満ち足りた気持ちになれるんでないかということだ。
なんかまともなこと言っててキモいけど。
大人になったんだなー。うんうん。(足の生えた黄色いキャラの絵文字)
ではまたー