どうということもない

どうということもないけど 忘れたくない

秋の冷たさと鬱


9月というのはなかなか残酷なやつで、私が予想していない間にするりするりと長いワンピースの裾先から入り込んでは胸元に肌寒さを与える。私の胸元は元々そこまで張りがある方ではないので、すぐにその風は広がって頭の方まで涼やかに。思考のクールさというのは極めて重要でありながら、鬱屈とも隣り合わせであることを忘れてはならない。そう、鬱の季節はもうすぐそこだ。きたぞきたぞ。全力で回れ右だ。


夏だからと言ってみんな浮かれていたのではないだろうか?かく言う私もその一人だ。いつもなら着ない短めのTシャツに、ハイウエストのダメージジーンズ、プリン頭になった犬のような汚いブリーチ・ヘアを合わせて浮かれポンチ。きっとワクチン二回完遂したことにかまけてかつてよく顔を出した古書店に行ったり、勝手のわからない初めての喫茶店で分かったような顔で注文をしたりしたのではないだろうか?紛れもなく私はその一人だ。夏の日差しは今年さほど苛烈ではなく、時折降り注ぐぬるい雨、上がった後の白い風がさらにその過ごしやすさを増していた。さすがにお盆の時期に冷えが来るのは霊感バリ5家系の私にはなかなか堪えるものがあったけど、まあこれも「涼しさ」ってことかと思えばやりきれた。そういえば今年は夕方になると母も私も近所の静かな公園で人影をよく見かけた。あと早朝にオオミズアオが二匹マンションの上の階と下の階にまったく同じ位置で死んでいた。


とはいえ。夏は夏だ。サイコーだ。夏は暑いし海は青いしプールはさらに冷えてキンキンで、エアコンの効いた部屋で齧るアイスキャンディー。夜に飲み干す缶ビール。塩焼きにした鶏肉にレモンなんか絞っちゃったりして、適当につまみ一つ作って白米と食ってればそれだけで万々歳なのだ。わかるだろうか。寒くなればこれからグツグツ煮込んだうどんと熱燗なんてやっちゃったりして、それもまた一興。ああ違う違うそうじゃない。

寒くなったら何がくるか。それは紛れもないマイナス。日はどんどん遅くのぼり、日照時間は減り、外に出るたび「あーこの格好は肌寒いわ、でも家帰って着替えたら間に合わねえわ」と思い、そのまま外で一日を過ごして家で風邪をひいたことに気づき。夏は一杯だけでよかったはずの白米はおかわりに手を伸ばそうとして。夜は何となく吹き付ける風と肌寒さに寂しさを覚えていつもは連絡しないような相手にしなを作ってみたりするのだ。そうして遅く朝起きて気づく、自分が醜く太って、寒気を理由に嫌な人間になってしまっていることを。より冷えた脳みそが、阿保をやることを許してくれなくなっていく。なくなっていく日照時間の中、暗闇で熟考し悶々とする時間は増える。そうこうしているうちに黒ずんだ皮脂のようにギトついた「何か」は近づいてくるのだ。しかも一度こびりついたらなかなか離れてはくれない。行きはこんなにすんなりくっついてくれるのに、帰る気配が一向に見えない。彼の名前は「鬱」だ。

こいつはマジですごくて、夏になると「今自分出番じゃないっすね」と空気を読んでくれる。友達と集まってバーベキューなんてしようもんなら、その匂いを嗅ぎつけて涙するくらい、こいつはザ・夏な感じが嫌いなのだ。波物語とか行ってたら涙流してジタバタ騒いで、ジブさんの顔なんてもう見れなくなってしまったのではないだろうか。知らんけど。そのくせに9月になると急にめちゃくちゃ元気になって、文化祭の準備に明け暮れたあの放課後の香りや、夏のリビングEDMお馴染みのセミとは裏腹に蟋蟀やら鈴虫やら各種虫の鳴き声も召喚しちゃったりなんかして、フロア(私たちが生きる世界)を「寂しい」「わびしい」空気に転換しようとしてくる。と言うか実際なっているのだ。体調が空気に左右されやすい敏感な人はみんな気づいてるのではないだろうか。


今年の奴らは、なかなか仕事が早い。


みんな、どうか鬱がやってくる前に、自分一人だけでもいいからパーティのひとつでも開いてくれ。どんなに明るく虚勢を張ったって無駄だ。あいつらどうせやってくるんだから。もう9月1日だから。君のすぐ隣に、ニコニコしながら熱燗啜ってんだからさ。せめてビールでも飲んだくれて、今日の夜は終わりにしようぜ。