どうということもない

どうということもないけど 忘れたくない

熱海旅行記①


滔々と流れる労働の因果から逃げるべく、私はJR渋谷駅から品川へ向かい、駅の中の本屋へ立ち寄った。カポーティを一冊買うと、心はいよいよ決まってきた。熱海へ行こう。


特急券を取って出発5分前に自由席へ掛けると、そこから夢のようにじわりじわりと空想が広がっていった。


熱海には2〜3度行ったことがあるが、どれも酒ばかり求めてしまい観光を疎かにした旅行であった。今回は温泉で身体を休め、あわよくば観光も楽しもうと思い適当な宿を調べる。


駅からほど近いホテルを押さえると、新幹線が駆ける真暗闇に光るネオンサインが随分と特別なものに見えて、じっと見つめると浮き出るかのように芝やアスファルトの照り返しが出てきた。横浜をググッと突き抜けて平塚、小田原へ。一人だけでもお金さえ出せばこんなにたくさんの距離を瞬時に移動出来てしまう。鈍行にばかり乗ってきた学生時代のことを思い出すと大人になるってサイコーじゃんと思えた。


おにぎりを齧り目を閉じれば、もうすぐそこに熱海があった。


30分強でたどり着いてしまった目的地、旅行にしてはなんとなく味気ない気がしてひとり勝手に損した気分になるが、トトトとドアから出て走り抜けると、生ぬるい夜風が頬を滑って私を得意にさせた。わはは。熱海だ。熱海。


そのままリュックを背負い込み駅を出るとすぐ右にアーケードが見える。来宮へとつながる商店街。昼間の活気が嘘のようにしんと静まり返った店先で、招き猫が飼い主を失ったようにジッと耐え忍んでいた。明日には迎えがくるんだろう、楽しみだ。


アーケード街を半ばスキップで移動する23歳女性。現場ではとても楽しくるんるんしていたなどと供述しており。


店と店のあいだにデンと現れたホテル。まさかそんな立地だったとは思わず、入り口に向かい合った瞬間ふはっ、と笑みが溢れた。不審。


適当ないらっしゃいませのシートが敷かれた庶民的な佇まいのロビーには、初老の女性が二人腰掛けていた。語り口からして田舎の人らしい。


フロントでガサガサと雑な字で記帳をしてチェックイン周りの手続きをすませる。


赤寄りの浴衣を選ぶと、コンバースを重たげに引きずりながら宿泊棟へと歩みを進める。エレベーターで7階まで上がるとピンク地になんだかわからない模様が描いてある絨毯が出迎える。


部屋に入ってリュックサックとカポーティ、浴衣一式をばらばらとベッドにぶちまけると、何かから解放された気がしてしばらく放心。何気なく時計は目を向けると時刻は22時をまわっていたが、入浴は24時まで。私はのろのろと浴衣に袖を通し、投げやりな固結びを作ってしばらく自撮りをした。


ベッド脇に用意されたバスタオルと手拭いを下げ、地下一階の大浴場に来ると女湯には先客があった。珍しい、この夜遅い時間帯に来る人がいるのか。


大きいお湯と横にちょこんと水風呂が一つずつ。洗い場が10個程度並ぶ。先客の女性はふくよかな体型でばるんばるんと身体を揺らしながら身体を流している。


それを尻目にささっと洗い場で疲労困憊の身体にお湯を通し、石鹸をつけて凝り固まった節々をほぐしていく。お湯への期待が高まっていく瞬間、この時が人生で一番幸せなときなのかもしれない。


御影石のつやつやした浴槽の淵に腰掛け、恐る恐る足をつければ、41度を過ぎたくらいの熱めのお湯が出迎えてくれた。ゆっくりと身体を浸からせると、上司に任されていたあれこれや身の回りのゴタゴタが全てないまぜになって汚いまだら模様を作り、黒いお湯の奥底へ沈んでいく。代わりにぽかぽかした気持ちと明日への期待が柔らかな光をもちながら浮いてきた。私の周りに泡を作ってそれは消えた。

徐々にお湯の中へ身体を滑り込ませ、顎のギリギリまで浴槽につけ込む。


「ではぁ」


すんでのところで唇から下を引き上げると、不思議と部長が時折鳴らすような声が漏れ出た。おじさんだったかも知れない。私。


浴槽から出て備え付けの適当なシャンプーとボディソープで体を洗うと、まだ出たばかりの先客がだらだらと脱衣所に居座っている。この時まで私はこの先客が普遍的な人物だと思い込んでいた。


ガラリと磨りガラスを開ければ、ふふ、ふふふと謎の声が聞こえる。


洗面所に座り込む女性から漏れ出る笑い声だ。


「ふふ、うふふふ。」


ぬかるんだ彼女の泥のような瞳がジッ…と見つめてくる。

恐ろしくて、背筋がぶるぶると凍えるのを感じた。

どこまでついてないんだ。


なんとなく怖い思いを引きずりながら、急いで服を着替えてかなりの早足で部屋へと戻った私はガチャリと鍵をかけた。ああ、恐ろしい。


所在なさげに部屋を彷徨い、とすんと椅子の背もたれに寄りかかると、さっきのは改めてなんだったんだろうかと逡巡してしまう。

仕事を半ば投げて熱海へと向かってしまった私への罰?


その時私は三つほど片し忘れた仕事があったので、自分を憐れむような気持ちがあった。こんなことになる前に仕事を終わらせればよかったのに。

うだうだ悩んでも仕方ないので、カポーティを少し読もうと開いた。なんだかあんまり心落ちのしない話の運び方に、最近執心していたブコウスキーやジョンソンの淡々とした語り口が恋しくなった。ホリーゴライトリーのその日暮らし然とした少し脳の足りない女の子の生き方が、Aに被って見えるからだな。そう結論づけた後、自分で買ったものにケチをつけるのは性ではないので、もう今日は寝ようとのそのそ布団へ潜り込んだ。朝の9時ごろに目覚ましをかけて私は意識を飛ばした。