どうということもない

どうということもないけど 忘れたくない

非完作品とわたし


じっとりと汗ばむ肌と、乾いたコンタクトレンズの張り付いた瞳、疲労と呼ぶにはあまりに優しく、歓喜と呼ぶにはあまりに疲れ果てている。今この瞬間、私の夏は終わりを迎えたのだ。


ああ、放送研究会で良かったなと思った。沢山学ぶことがあったと思うし、こんな癖の強い人間に、沢山優しくしてくれた同期達には感謝してもしきれない。ありがとう。

そして、私は非完作品を作ることが本当に、楽しすぎた。

MCやDJは、前に出てパワーポイントを見せながら話していく、プレゼンのような番組だ。

こんな形式で自分も演者として参加しながら企画、脚本、演出まで全部できて、時間が15~20分ほどなので、案が浮かぶ限りは、結構量産できる。


私はこの3年ほどで様々なものになった。ある時はベテランのメイドさん、ある時は謎の2女、チアリーダー、新人エージェント、性格の悪いアナウンサー、引退直前のキャバ嬢、サキュバス、ディズニーシーの客、作品の中でなりきったものをあげるとキリがないくらい、様々な姿に擬態して、様々な人生をそこに落とし込んだ。


こういったやたらキャラ主張の強い作品を量産するという行動に及んだ原因を考えると、「人間の人生や、人となりというのは、一貫しているものでは無い。」という考えが私の中に固く存在していて、例えば上にあげたような職業だったり人だったりというのは、全て私の中に存在しているひとつの側面でしかないんです。だからこそ、それを抽出して、じっくり向き合ってみたかったんだと思います。そうするうちに、おのずと作品のキャラクターが生まれてくる。作る過程で、「お前にはこんな1面があったのか」と気づく時があったり、「なんて作品を作りづらいやつなんだお前は」と悩む時があったり、色々な瞬間がありました。コスプレを毎回やってたのは、もちろん私がコスプレ好きというのもあるけれど、作品をやっている一瞬だけでも、キャラクターに私の外側を貸してあげよう、という意味もありました。うーん、我ながら本当に気持ち悪いですね。


私は作品を作る中でそういった葛藤やら考え込むことがすごくあって、発表会の前は毎回考えすぎてグロッキーになってしまい、締切に間に合わない時期から始める無計画さも相まって、荒んだ状態になることも多かったです。でも、結局本番に少しでも笑ってもらえたり、感想を貰えたりすると、あっ、自分も、自分の中にいるこのキャラクター達も、どちらも報われたような救われたような気がして、つい嬉しくてたまらなくなってしまう。講評用紙も、全て保存しています。引越しの時なくさないようにポケットに入れて移動しました。


作品出して上手くいかなくて泣いて何とか本番に間に合わせて・・・そんなことを繰り返して繰り返して、4年生になって、ついに最後の機会が終わってしまった。なんてあっけなかったのだろう。完パケをやってみたいという心はあったけれど、やはり自分の真骨頂は非完にあると思っていたので、完パケ作る時間があるなら非完を大量に作り上げたかった。訳の分からない企画量は、私の中での非完作品に一旦けりをつけるための葬送儀礼の意味があったように思います。


それでも、「もうこれだけやったから、悔いなんてない!」って思えないです。

またあの舞台に立ちたいし、観客に私の作り出したキャラクターや、セリフ、テンポに沢山笑って欲しいし、木製の台で作った簡素なステージにすがりつきたい。照明の熱く照らす中で、台本をめくる音と、マイクのこだまを何時だって、味わっていたい。こんなにも激しく胸を焦がすものに出逢ってしまった。中毒になってしまったとも言える。これが吉と出るのか凶と出るのか、私には全くわからないけれど、3年と少しのあいだで生み出した、たくさんのキャラクター達へ、感謝の気持ちを込めて、終わりたいと思います。

あと何度でもしつこく言うんですけど、放送研究会の後輩達には、非完番組沢山作って欲しいです。超楽しいから、やってみてね。



もう二度と戻れないステージへ、愛をこめて


amane